強度の精神病・鬱(うつ)・孤独と闘う男の体験談

ボロアパートで暮らす私の孤独

私は今年、協議離婚をしました。私が唯一、世の中と繋がっていた家族を取り上げられてしまったのです。時はまだ寒さが肌身に凍みる1月の事でした。

元は、家族4人で住んでいた市営住宅から私一人が追い出されて、家賃が3万円という洗濯機も設置する場所もなく、システムバス付きのボロアパートに追いやられました。

精神病院に入退院を三回ほど繰り返し、私の回りにいた友人や知人は、皆次々と疎遠になりました。おまけに精神病院だからだと思われますが、入院中に誰一人として面会に訪れてくれる人もなく、人間社会に躓いた人達の中で私はとても孤独を感じていました。

私には何が正常で何が異常なのかが、さっぱり解らないのです。病名「リタリン中毒」(中枢神経興奮剤)と言うことで、このリタリンという薬は化学式が極めて覚醒剤に近いと言われ、合法的覚醒剤とも呼ばれている薬です。

しかしこの薬は違法ではなく、医師の処方箋があれば薬局で容易に入手できるものなのです。私が定められた処方量以上に服用してしまったのが発端で、「リタリン中毒」というレッテルを貼られてしまい強制入院させられました。

病院側の治療方法としては、徐々にリタリンの服用数を減らしていくという全く持って低レベルの治療法でした。

私は病院のベッドでもがき苦しみ、のたうち回る程の(決してリタリンの禁断症状ではなく、飲まなくても本物の覚醒剤のように幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたり、そんな症状は全く無いのですが)苦痛を味わいました。

私が苦しんだ大きな理由は、厳重に鍵のかかった閉鎖病棟。窓には鉄格子、人間として扱いさえも受けることが出来ず、社会から完全に隔離されたその事実にベッドの中で枕を濡らした夜も少なくありません。

私の苦悩が十個あるとすれば、その一個でも他人様に譲ったならば、おそらくその方はきっと発狂するか、自殺する事になるでしょう。それ程までに人間として生きる事に狼狽していました。

私の苦悩と災いは、今回の精神病院に入院するよりも、ずっとずっと前から身に付き纏い、それは、それは辛い思いをしてきました。

鍵っ子だった幼少期

私は昭和37年生まれで俗に言う厄年に中ります。この文章を書き綴っているのは44歳の誕生日を過ぎて、後厄を通り越しました。私には兄弟もない一人っ子で、ごくごく平凡なサラリーマン家庭に生まれ育ちました。

両親は共働きで、父は工場の工員で、夜勤の交代制があり、とても不規則な生活リズムで、父とは殆ど顔を合わせることはありませんでしたし、母は繊維会社の経理をしていて、ひどくお酒が好きで毎日帰宅する時間が遅く、兄弟も身内も居ない私は一人遊びすることが多く、独りぼっちの時間がとても多くて、親子の触れ合いなど殆ど無く、所謂「鍵っ子」でした。

この孤独から漸く脱出出来たのは高校時代になってからと記憶しています。母は高齢出産だった為、「マーくん」「マーくん」と呼ばれ、溺愛され、物にも不自由せずオモチャも沢山買い与えられ、とても過保護で、カゴの中の鳥のような、表面的には幸運を装って居ながらも、その奥底に潜む悪魔には、誰も気が付かない環境の中で育ちました。

しかし、毎日が寂しさの連続で、学校から帰って来ても、当然のように家には誰も居なくて、母の酒好きが原因で帰宅時間が10時を廻る事など当たり前で、そんな母の帰宅を窓から顔を覗かせて、帰りを待つのが私の毎日の習慣になっていました。(幼稚園児の私には10時は深夜です)

休日になると、母は私を連れて街へ出掛けて行ってデパートに行き、好きなオモチャをウンザリするほど買い与えられました。欲しくもない物までも「これはどお?」と言われ、そういわれると私は嫌という勇気もなく「うん。欲しい」と言って、オモチャが山のような荷物となって自宅へ帰ってくるのでした。

今になって考えると、母にとっては唯一の罪滅ぼしだったのでしょう。私が欲しい物ならば多少高額でも買ってくれました。

しかし、オモチャがどれだけ沢山あっても、私が感じる毎日の心の寂しさの隙間を埋めることは出来ませんでした。(お蔭でオモチャでの一人遊びが得意でした。)

父が、画用紙を数百枚買ってきて、画材も与えられたので、私はオモチャよりも絵を描く事が唯一の逃避で、時を紛らわす事ができました。このお蔭で、将来画家として名誉ある賞に入選したりしました。

しかし、学校での通信簿では、図画の成績は最も悪かったのが不思議でたまりませんでしたが、中学3年になって、その意味が明白になりました。教師が私に向かって、こう言いました。

「点数稼ぎの道化の作品ばかりだな。」

私は心の底から激怒しました。一生懸命描いた写生や絵画も、教師の目から見ると、単なる道化に写っていたのです。

高校時代に入って漸く、私の創造物を認めてくれる教師に出逢い、美術部に所属した私は、与えられた課題を意図も容易くこなし、美術部のレベルの低さにはたはた困り果てていました。

当然のように高校での美術の評価は最高点でした。絵だけに止まらず、読書感想文も高評価を得ることが出来ました。作文では賞も頂いたくらいです。全ては一人遊びの産物だったのでしょう。

求め続けた温かい家庭と母の温もり

話をもどすことにしましょう。学校から帰ってきて「お帰り」といって家族の者に出迎えてくれる家庭に憧れました。母の温もりが欲しくてたまらず、一般の家庭を羨ましくさえ感じていました。

私の家庭は時間的にも家族全員がバラバラのリズムですので一家揃っての団欒とした夕食などというものには全く縁がなく、皆それぞれ自分のペースで生活をしていました。

私は幼稚園の頃はとても泣き虫で友人に虐められると直ぐに泣きじゃくり、とてもひ弱な子供でした。内弁慶と言うのでしょうか?家庭の中では泣くことは殆ど有りませんでした。

しかし、唯一、夫婦喧嘩が始まると何故だか悲しくて、おいおいと泣きました。何が原因かは解りませんが夫婦喧嘩の多い両親でした。

(父の死後に解ったことですが、「もっと私と触れ合う時間を作れ」というのが父の言い分で、「家計を豊かにするために仕事は辞められない」という母の意見の衝突だったそうです。)

そんな幼児期を過ぎ、小学校へ入学する頃には、他人に意地悪されても泣くことを堪える力が付きました。ただ、学校の給食を全部食べることが出来ずに毎日泣きべそをかいていました。

学校の行事の中でも一番の苦痛が給食でした。給食さえなければ、何の苦痛も無いのですが、驚くべき事に当時の私は卵焼きしか食べることが出来なかったのです。

小学校も2年3年と上級していくうちに、私は登校拒否(今では不登校と言うらしいですが)を覚えました。

嫌な授業や、体育の授業のマラソン。嫌いな給食の献立、等理由は様々でしたが、私は前日に「明日は学校を休もう」と心に決めると、翌朝、頭が痛いだの、腹が痛いだのと、なんだかんだと言って学校を休みました。

ある時には、帽子が無いと言って欠席しようと目論見ましたが、隠しておいた帽子をいとも簡単に見つけられ、泣く泣く登校した記憶があります。

聞く耳持たずの私に母も医者も諦めた

母も仕事があるので、朝の仕度には時間的余裕が無く、私のことなど気にも止めず、さっさと学校の担任教師に電話して欠席することを告げてそそくさと仕事に出掛けていきました。

その電話一本で私の心は晴れ晴れとして自由を勝ち取ったかの如くのびのびとした心持ちになりました。時には仮病だろうといって、母に言い詰められましたが、如何にも苦しそうに演技をして母を騙しました。(母も騙された振りをしていたのだと思います。)

勿論病院に行っても薬も処方されず、仮病であることを医師は知っていました。母は「熱がないと学校には行きなさい」と説教するのですが、そんな話には聞く耳持たずの私でした。

先ず、月曜日は必ずと言って良いくらい欠席です、挙げ句の果ては一週間、一ヶ月と欠席する間隔が長くなっていきました。

当たり前のことですが、クラスメイトとの学力の差や、久しぶりに登校してみても授業の内容はまるでチンプンカンプンで、ただ阿呆のように授業を受けて、何も身につく事はありませんでした。

しかし何故だか通信簿や成績が(図工以外は)他の生徒よりも良かったのが今になっても不思議でなりません。中学生になると、勉強のペースも速くなり、一日欠席すると、その日の授業内容は取り戻すことが出来なくなってしまうのですが、それでもお構いなしに私は学校を欠席しました。

欠席した日は独りで家に居てNHKの幼児番組を見るのが癖になっていました。そしてついに、中学2年は1年間全て欠席してしまいました。寒い、暑い、という自然の摂理にも対応する精神力がありませんでした。

「一緒に死のうか」と母に言われて・・・

あるとき母は突然、そんな私に「一緒に死のうか」と言いました。私は気も狂わんばかりのショックで、居ても立っても居られないくらいの一言でした。

中学生の私には「死」と言うものに現実味が無く、絵空事のような事でしたので、私が学校を欠席するのが、母にとっては行き詰まりだったのでしょう。しかし私の登校拒否は治るどころか、ますますエスカレートしていったのです。

ところが中学3年になると、今までの登校拒否が嘘のようにパッタリと止まり、毎日休まず登校しました。何故私が途端にこのような変貌を遂げたのかは未だ持って皆目見当も付きません。

毎日規則正しく朝食を摂り、夕食も時間通りに食べて、体からストレスという者が「スーッ」と抜けていく感じがしてとても充実した日々をおくることができました。

両親から小言を言われなくなったのも快感でした。中学2年時代を1日も登校していないので学力の差は歴然としていて授業の内容もさっぱり解りませんでしたが、私は登校しているということだけに満足感が一杯で、休み時間には友人と気さくに会話や遊びができました。

流行の漫画の模写を描いてプレゼントすると、皆大喜びしてくれました。私は当時から親友と言う言葉が信じられず、あくまでも友人は友人。親友などという大それた交友関係を持つことに怯えていました。他人の事が全く信じられなかったのです。

そんな私のような阿呆な人間にでも色恋沙汰には何故か縁があり、幾多の女性が私の上を滑り抜けていきました。背が低いのが難点でしたが、3枚目のピエロの体裁で女性にウケが良かった様子です。

中身は空洞の張りぼて人間

私は社会人になっても会社を休む癖は抜けませんでした。そんなことで会社も転々と変わり1年として1つの会社に所属することが不可能でした。

決して悪ふざけしているのではありません。私は大真面目なのですが、小学校から培った癖なのでしょうか?他人と関わることが嫌い。

友人らしき人物も居ない。友情を知らない…まるで、形は人間ですが、中身は空洞の張りぼて人間になっていました。

そんな自分が恥ずかしくて成人式にも行きませんでした。勿論同窓会などがあっても、とても自分が恥ずかしく出掛けることは一度もありませんでした。社会のゴミ同然でした。

私が丁度24歳の頃に母が他界し、母に頼り切っていた父親は路頭に迷い、私は散々酷い目に遭いました。もうその頃から私は家には帰る事はなく、自動車の中で寝泊まりをして生活していました。

定職もなく・住所もなく・勿論当時の事ですから携帯電話など有るはずもありません。死のうと思いました。そんな阿鼻叫喚の時に幸いにも心を癒してくれる女性がおりましたので、命辛々彼女のおかげで助かりました。

それでも私は独占欲が強いのか、寂しがりなのかは解りませんが、その彼女と一緒に暮らしたくて、一緒に東京で暮らそうと話を持ち出し、彼女はそれに同意してくれて、駆け落ちみたいな真似事をしました。

東京での貧乏暮らし

そんな訳で東京に辿り着いた所までは良かったのですが、家財道具も何もない。ボストンバッグ2個程の荷物を抱えて、2人でこの先どうするのかということを決してお互い口には出しませんでしたが、切迫した大問題でした。

上京した時の軽自動車を売って取りあえず風呂もトイレさえも無い、ボロアパートに入居する事が出来ましたが、寝る布団さえ持っていませんでしたので、不動産屋さんに頭を下げて中古の寝具を譲ってもらいました。

彼女はキャバレーに勤め、私は日雇いの仕事をしました。勤務時間のすれ違いで、私たちは会話することさえ出来なくなってしまいました。

そんなコミュニケーションの無い同棲生活が長続きする筈がありません。ある日、私が日雇いから帰ってくると、部屋の中には彼女の私物は一切無く、「ごめんなさい」とメモに走り書きがあり、4万円程だったと記憶していますが、そのメモと一緒に部屋の真ん中に置かれていました。

背筋が凍る思いでした。そうして彼女との連絡も取る術もなく頼る知人も居ない私は半狂乱になりました。すれ違いの毎日の生活で、家庭らしきものが著しく欠落していたので当然と言えば当然の終末なのだと感じました。

私はもう東京には未練が無く地元の岐阜県に帰ることを決意しました。知人も誰一人として居ない東京での孤独に私は耐える気力さえ失っていました。

そしてフラフラと新幹線に乗り、岐阜に帰ってきました。その時の私の所持品はボストンバッグ1個と傘1本だけでした。当然自動車も無く移動手段が無いので、高校時代の友人に電話をして、今までの経緯を話して何とか駅まで向かえに来てくれる事になりました。

しばらくはその友人の家に居候させてもらい、私は一生懸命に職を探しました。名前は忘れましたが電気の配線板を制作する会社が見つかり、自分の事情を話すと、そこの社長は私に部屋を与えてくれました。

敷金や礼金で20万円程だったと記憶しています。しかし、会社と自宅との距離がかなり遠くて、路上で無断拝借した自転車では通勤が不可能になってしまい、その会社とは自然消滅のようにもう通わなくなりました。

お菓子屋の問屋さんで働いた日々

丁度その頃の事、知人から原付バイクを譲ってもらいました。自転車よりも行動範囲は広がりますが雨の日が苦痛でたまりませんでした。

そして、自転車でも通勤可能な位置にある会社に就職する事ができました。お菓子の問屋さんで、仕事の内容はお菓子をスーパー等の小売店に配達するという単純な仕事でしたが、元々体力の無い私にとっては、仕事に慣れるまでかなり時間がかかりました。

電気屋さんに借りて頂いた部屋には裸電球一個しかなく、冬の寒さに耐えかねて、ドライヤーを上着の中に入れて暖を取ったこともありました。ストーブさえ買うお金がなかったのです。

しかしお菓子屋の仕事も順調にサイクルが決まってくると、炊飯器やストーブその他自炊の為の道具も僅かながらではありますが徐々に揃えていく事ができて、何とか一般の人間らしい環境が揃い始めた頃、勤務先のお菓子屋さんの事務の女性と恋仲になり、またしても同棲らしきことを始めました。

その女性のお蔭で立派なオーディオ製品を購入し、電話回線も引くことが出来ましたし、自動車も持っていましたので終末には遠出などをして戯れておりました。

お菓子屋さんの月給だけでは満足が出来なかったので、私はファミリーレストランで深夜の仕事をしました。事務の女性の月給と私の給料とバイト代を合わせるとかなりの額になりました。

今までお金もなく家も無く、何もなかった私が自動車(マイカー)を買うことが出来ました。

お菓子屋さんとバイトの肉体労働には悉く疲れ果てておりましたので、私は予てからの念願であったデザインの仕事を探し当て、就職する事になりました。

低賃金でしたが、まるで水を得た魚のように仕事に没頭しました。絵を描くことが得意な私はその天性を遺憾なく発揮し、会社での評価もまずまずでした。デザイナーは天職だと感じて、もうがむしゃらでした。

半年で壊滅した最初の結婚

それから2年程経ってお菓子屋の事務の女性と婚姻届を出しました。結婚式も披露宴も何もない密やかな結婚でした。

家庭内では穏便な日々が続き、仕事にも慣れて来た頃、デザイン事務所にコピー機の販売をしているセールスの女性と知り合いになりました。

結婚して半年も経っていないというのに、不倫。私は自分の家には帰らずにセールスの女性の部屋に入り浸りになりました。毎日スナックへ出掛けては泥酔する有様で完全に私の家庭は僅か半年で壊滅したのでした。

前妻が包丁をもって、セールスの女性の部屋に殴り込んで来たこともあります。結局今まで血みどろになって貯めた400万円程度の貯金と自動車を手切れ金として離婚が成立しました。又しても私はボストンバック1個の丸裸になってしまいました。

しかし新しい恋仲の女性との間に子供を授かりました。由緒正しいこの女性と結婚することになったのですが、女性の両親に、「何処の馬の骨かも解らない奴」と罵倒され、私には親や親戚は居ないも同然なので、言い返す言葉さえ見つかりませんでした。

しかし、結婚式と披露宴を準備して頂いて、通常の人間らしい結婚が無事終わりました。披露宴では、私の身内は誰一人として列席せず、知り合いや友人ばかりを招待しました。

まるで回りを見回すと敵ばかりと言った印象で、肩身が狭く私の存在は邪魔者の珍客といった体裁で、これでも結婚式か?と痛いほど感じていました。

そして間もなく長男がこの世に生を受けました。私は血の繋がった人間がこの世に現れたという現実を目の当たりにして涙があふれ出して止まりませんでした。

それから3年後、長女を授かりました。家族4人で決して裕福ではありませんが、私が喉の奥から手が出るほど欲しかった家族を手に入れることが出来たのです。

しかし私には幸福には縁が無いようで、ある日突然「突発性難聴」という病気になりました。強烈な耳鳴りがして気が狂いそうになったのです。

この病気のせいで、就職先のデザイン会社から解雇通知を突きつけられて無職になってしまいました。

1ヶ月もすると症状は治まってきましたので、私は自営でデザイン業を始めようと決意しました。口コミや、紹介で少しずつ仕事も増えてきて従業員を雇える程まで、会社は成長しました。

私はデザイン以外でもコンピューターグラフィックで作家として絵を描いていて、全国規模のコンテストに受賞しました。

自動車は私はベンツ。家内はミニクーパーと外車を乗り回し社会的な地位も僅かながらでは有りますが確立するかと思った矢先に、遂に凶悪な悪魔が眼前に現れました。

精神障害者2級の手帳を持つ私

猛烈な目眩に襲われ、パニック状態に陥ってしまいました。歩くことも座ることも何もできず、脂汗が溢れ出してきました。

自分で「119番」で救急車を呼んで病院に担ぎ込まれました。この事が原因で私は鬱病になってしまいました。

精神科の医師は「境界例」という病名で、精神障害者2級の手帳を交付され、仕事も手に付かないので生活保護を受給することになってしまいました。

保護費の限られた僅かな金額で細々と生活をしていましたが、私の鬱状態は一向に改善する兆しも無く、社会的地位は没落の一途を辿ることになったのです。

何の切掛けだか忘れましたが、ある本で「リタリン」と言う薬が有ることを知り、精神科の主治医に申し出たところ処方していただけました。

この薬を飲むと鬱など完全に吹っ飛んで躁状態になり、自分がスーパーマンにでもなったかのような錯覚を覚えて、自分には必要不可欠なる薬となってしまったのでした。

しかしこれが邪悪で、人間を崩壊させる悪魔の薬とは気が付きませんでした。「リタリン」さえ飲めばどんな仕事も陽気に軽くこなすことが出来て、2,3日の徹夜で仕事をする事さえ可能になったのです。

「リタリン」を飲むと気が大きくなって高額品を後先考えずに購入してしまい。挙げ句の果てには家内のクレジットカードを盗んで買いまくりました。

当然借金は膨大な額になり、返済は不可能な状態で、どのクレジットカード会社からも、解約通知が送られてきてカードの使用が停止させられました。

又、病院からの「リタリン」の処方量では満足できなくなりインターネットで検索をして「リタリン」を1錠600円という高値で購入して服用する事になってしまいました。

「リタリン」を買うためにサラ金業者からも借金をして、もう完全に返済不可能な状態にまで陥りました。当然のように家内は請求書が配達される度に激怒し、私を罵倒しました。

「生活保護を受給した時点で夫として感じていなかった」とか「リタリンを買ったら離婚する」という誓約書さえも書かされました。

家内は泣きじゃくり激怒し、完全に私を嫌っている事は明白でした。離婚!離婚!離婚!と毎日のように、離婚届にサインをするように催促の嵐でした。

それでも私は「リタリン」の魔の手から逃れることが出来ませんでした。協議離婚ということで離婚届に、遂にサインをしてしまいました。

又一文無しのボストンバッグ1個で家から放り出されました。自動車もありません。又昔のように自転車だけが移動手段です。生活保護の限られた金額では、私の遣り繰りが下手なせいもあって、1ヶ月の間保護費では生活出来ないのです。

ポカリスエット1本プリン1個 いなり寿司3個・・・これが私の一日の食事です。ガス代が勿体ないので風呂にはほとんど入りません。洗濯(コインランドリー)の200円が勿体なくて一ヶ月に1回しか洗濯しません。不衛生極まりない毎日です。

部屋は散らかって整頓が出来ず。これが私の本当の姿(正体)なのかもしれません。生活保護費の前借りも幾度となく頼んでいるので、ついにその「つなぎ資金」の貸し出し停止となり、毎日家計簿を付けるように義務付けられています。

お金が無くて断食することもあります。空腹の辛さ、空腹で睡眠も出来ないのです。誰も私の部屋へ訪れる人は居ません。誰も私を人間として扱ってくれません。

生きている価値さえ無く、たとえ餓死したとしても「へぇ」で終わり。かといって死ぬ勇気も無く、ただ阿呆のように毎日同じ事を繰り返し、毎晩眠る前に明日の朝こそ目覚めることなく死んでいますように・・・と祈って床に入ります。

44歳の誕生日も断食でした。私の誕生日など誰も気にしていません。もしかすると、説明は不可能ですが、私の今、この現状が至上の幸福なのかも知れません。

長女から届いた一通の手紙

今手元に、私が精神病院に入院していた時に長女から届いた一通の手紙があります。

 

毎日がんばっているお父さんへ

調子はどうですか?
入院はくるしくて、イヤだと思うけど、
私のお父さんとして元気な顔で帰ってきて下さい。

学校は楽しいけれど、つまらない時やかなしい時は
お父さんのようにがんばります。

小学校4年  小梅

 

涙が込み上げてきて泣いても、泣いても、涙を止められませんでした。人に見つからないように泣きました。悲しくて恋しくて、手紙の文字を指でなぞったら大粒の涙が手紙を濡らしました。

家庭内の事情も知らぬ子が一心不乱に書き綴った一通の手紙。この子達に一点も恥じることのない生活をおくりたい。心が締め付けられるようです。前妻は私に子供達を私に逢わせようとしない事は、胸を引き裂かれんばかりの辛い思いをしているのです。

大地に根を張る大木とあれども、根が枯れて大地に存在する多種多様な栄養を吸収することも出来ない、人間の形をしていても中身は空っぽ。枯木。まさに今までの私の生涯は枯木の体裁でした。

実がなることもなく、葉が紅葉する事も無く、斧で叩けば意図も簡単に朽ち果ててしまう枯木です。過去にも枝に果実があり、葉も洋々と生い茂った事も全ては幻だったのです。

他人や社会を恐怖する。人間界においてたった一つ真理らしくおもわれたのは、たったそれだけでした。

法華経に「逢うは別れの初め」という「会者定離(えしゃじょうり)」と言う言葉がありますが、私にはどうしても納得がいかなくて、胸が苦しくなる言葉です。

こんなネガティブな方程式はこの世から消え去って欲しいとさえおもうのです。「別れは出会いの切掛け」とでも思えば、少しは気が休まります。

万物には初めがあり、必ず終わりがあることは否定できない事実でありますが、生物、物、道具には必ず「寿命」というものがあります。

私の拙い認識ですが、それら万物の寿命を全うするまで、どれだけ愛情を持って接することが出来たか?が問題なのだと今更ながら思っています。

人には大切な宝物の一つや二つはあると思います。宝物は、物でも人でも宗教や思想でも構いません、その所謂宝物との関わりで自分が幸福で平和な気持ちになることができるのならばなお幸せなのだと思います。

「現状に満足している者は、敗北者である。」
ガリレオ ガリレイ

あとがき

この手記は、行きつけのバーの店長に見せてもらい拝借したのだが、この狂人は、酒も飲まず、ギャンブルもせず、ただタバコが唯一の道楽であったようだ。

もちろん彼とは直接対面したことも、ましてや話をしたことも無いが、一般から見れば、ただの腑抜けた男と捉えられるだろう。

しかし、文面の隙間に籠もった怨念とでも言おうか執念とでも言えばよいのか、それこそ恐ろしい手記である。

かなり簡潔に生涯を省略して書き綴ってあると読めるが、その省略せざるを得ない阿鼻叫喚の地獄図が裏側にべっとりと貼り付いているのを感じる。

こんな人間なら仕方がない、自分で自分の首を絞めているだけだ、と言ってしまえばそれまでだろう。だが、どうしても邪悪なる天命が、彼の周辺に付きまとって、どうしても拭い去れない「運」を感じられずにはいれない。

自らを枯木と呼び、人間社会に背を向けて自分の殻に閉じ籠もっている様子は、確かに精神医学的には「鬱」であることには間違いのない事実であると感じさせられるが、彼にはそういった単純に枠組みの出来ない致命的な幼少時代の経歴による悪癖が生涯を波瀾万丈なものにさせているのではないだろうか?

今頃、彼は死んでいるのか、生きているのかさえも、店長も知らない。

「あいつは甘えん坊なんですよ」「世渡りが上手く出来ない不虞者だから」と店長は言う。

「リタリンの虜になってしまったから、もうダメでしょう。あの薬さえ飲まなければキリッとした紳士ですよ。」グラスを拭きながらバーの店長はこう言って背を向けた。

何故このような手記を手に入れることが出来たのかと尋ねると、「リタリンを100錠ばかり飲んで、一晩で書き綴り、突然持ってきて、それっきり…」とのことで、「初めにリタリンを処方した医者の責任だよな。」と言いながらタンブラーの氷を入れ替えて、差し出しながらマスターが言うのです。

「私には一蓮托生する物も気力もないのだ。生者必滅なんて縁がないのだよ。」とバーの店長がこの言葉をくどいほど聞かされたそうだ。

「愛する物や人から離れ離れになることは誰しも苦痛を感じることだが、ましてや愛している人に憎悪される事ほど寂しい物はないだろう。マスターはどう思う」と聞くと。

「彼は世の中と繋がっている細い細い糸で命辛々生きている様子だったよ。それに自分からその細い糸を断ち切るような言動をするからねえ・・・これじゃあいけない。人様には腰を低くして気取らず、自慢せず、高ぶらないように言って聞かせましたが、どうやら彼には馬耳東風の様子で、目先の快楽を手に入れることが必死なのですよ」

続けて店長は、「私は枯木なのですよ。葉も実も無い根が腐った枯木なのです。誰も援護してくれる人など誰も居ないのですよ」と言っていたらしいのだ。

自滅の一途を辿る彼に回復のチャンスは訪れるのだろうか?住所も連絡先も解らないので対面することは不可能だがこの凶人に一目でも逢って見たい衝動に駆られ四方八方手を尽くしてみたものの、行方は全く不明。

もしも神様が居るのならば彼の命だけは奪わないでもらいたい。きっと再起の時が来るのをジッと我慢強く待つのが彼の一生涯掛けての役割だからである。

お子さんも二人いらっしゃるようなので、せめて血の繋がった子供にだけは、悲しい思いをさせぬようにするべきだ。

マスターに、「枯木も何時かは実や葉を付ける事だってできるじゃあないか。」「大きな快楽を求めなければ、自然と大きな悲しみもやってこない。枯木のままでも生きていれさえすれば、幸運は必ず訪れる」

もしも彼が現れたらこの言葉を伝えて欲しいと頼んだ。「聞く耳持ちますかねぇ」とマスターが言うので、とにかく告げるだけでいいからと言って店を出た。

まだ10月半ばだというのに自棄に寒さが身に染みた。

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